病気、不幸、そして飢え

 人間はときとして、物事に対して無関心だったり傲慢だったりします。そして、ふだんは健康の大切さを忘れて暮らしています。からだは労わらなくてはいけませんが、ある程度は運動や体操などを行って、鍛えなくてはいけません。しかし、心がけてはいても、程よく生きるのはむずかしく、病気になってしまうこともあるでしょう。

 病気になってしまった、そのときが肝腎なのです。病気を、まったく偶然の産物と捉えて、医者頼みにしてしまっては、せっかく病気になった甲斐がありません。

 先日、電話で病気の相談を受けました。「甲状腺機能亢進症や閉塞性動脈炎になったのだが、生き方に無理があったとは思わない」というのです。この調子では、こちらもアドバイスのしようがありません。

 長く生きていると、人はいろいろな不幸や不運に見舞われます。しかし、病気に罹ったときと同様に、ただ嘆いているだけでは何も生まれては来ません。不幸な境遇は、幸せとは何かを考えるよい機会なのです。不運な目に遭わなければ、それまでいかに運よく暮らしていたか気づくことなどなかったでしょう。

 今の日本では、飢えることはほとんどありません。飢えを知らなければ、自然の恵みのありがたさがわかりません。10年ほど前、日本の米が不作でタイ米を輸入したことがありました。思えば、あれは自然の恵みのありがたさに気づくよい機会だったのですが、多くの人は、タイ米はパサパサしておいしくないなどとぜいたくを言うばかりで、何も考えませんでした。世界には、いろいろな種類の米があって、それぞれの味覚や環境に従って、米をつくっているということさえ学ばなかったのです。

 私が子供の頃、青森米はパサパサした食感だったので、タイ米を食べて子供時代を思い出しました。味覚は子供の頃に形成されるといいますが、たまにはタイ米を食べたいなあと思いながら、おいしくいただいたものです。

 今はそんな時代です。自然の恵みを知らないから食べ物を無駄にしてしまいますし、自然を破壊してしまいます。まさに感性が育ちにくい時代だといえそうですが、飢えることなく生きられることに感謝の気持ちを忘れないでください。

以上です・・。

 

ありがたい、思い出させてくださる「お言葉」でした。そうですね、太陽と大地、そして地球にご先祖様たち、プラス八百万の神々に感謝せねばなりません。ちょっとした幸せを感じたときに「感謝の気持ち」を置いていきましょう。

温王子でした・・・